2010年03月26日

「上士」と「下士」(郷士)

老子の『道徳教』第四十一章に下記がある。

すぐれた士は道のことを聞くと、力を尽くして実践する。中くらいの士は道のことを聞くと、あるときは実践し、あるときは忘れてしまう。くだらぬ士は道のことを聞くと、大笑いする。笑われないようでは、道とするには足らないのだ。だから、つぎのような格言がある。

本当に明かな道は暗いように見え、本当に進んでいく道は退いているように見え、本当に平らな道はでこぼこしているように見える。

最高の徳は空虚なように見え、大いなる潔白は汚れているように見え、広大な徳は何か足りないように見える。

しっかりとした徳を持った人は怠けているように見え、質朴な正しさをもった人は変わりやすいように見える。

大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象(すがた)には形がない。

道は広々と大きく名づけようがないが、そもそも道だけが、(万物の生成を)よく手助けし、うまく成しとげさせるのだ。



上士は道を聞かば、勤(つと)めて之(これ)を行なう。中士は道を聞かば、存(そん)するが若(ごと)く亡(ぼう)するが若し。下士は道を聞かば、大いに之(これ)を笑う。


上士聞道、勤而行之。
中士聞道、若存若亡。
下士聞道、大笑之。

『老子』 蜂屋邦夫訳注 岩波文庫 青205-1 195頁



土佐の「上士」と「下士」(郷士)という身分制度、上士から見ると、下士は「くだらぬ、理解しないものは、ほうっておけ」(意見を聞くな)という感じをうける。

これは、山内一豊が土佐にきてから幕末まで続いたのだろう。


この結果、土佐では、言う力(説明力)と、聞く力(理解力)が低下してしまったのではないかと感じる。

反面、坂本龍馬は「聞く耳」(理解力・調整力)を持っていたのだろう。

そして、この世界から抜け出すには、脱藩しかなかったのだろう。


150年後の今は・・・、変わっていないのかもしれない。



老子 『道徳経』 33  人を知る者は智(外よりも内を)

知人者智、 自知者明。 勝人者有力、 自勝者強。
知足者富。 強行者有志。 不失其所者久。 死而不亡者寿。

人を知る者は智(ち)なり、自ら知る者は明(めい)なり。 人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足を知る者は富む。強(つと)めて行なう者は、志有り。其の所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智(めいち)である。他人にうち勝つのは力があるからだが、自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。

 満足することを知るのが、ほんとうの豊かさである。努力をして行ないつづけるのが、目的を果たしていることである。自分の本来のありかたから離れないのが、永つづきのすることである。たとい死んでも、真実の「道」と一体になって滅びることのないのが、まことの長寿である。


『老子』無知無欲のすすめ 金谷治 著 講談社学術文庫 113頁


ここに、明智がでてくるのも不思議である。




ALTO(雨蛙)に、特注のステッカーがついた。

毎日、早く家に帰ろう(という意味)。

  

Posted by 坂本世津夫 at 07:40Comments(0)TrackBack(0)