2007年02月04日
怒りと欲望
マルクス・アウレーリウスは、ローマ時代の「最後の賢帝」として有名であるが、ストア哲学の哲人としても有名である。
『自省録』は、自分を律するために、自分自身の行動を確認するために書かれたメモのようなものである。
いくら「自分が」と言っても、その自分もすぐに人々から忘れ去られてしまう。
何よりも心を平静にして、今、この時(現在)を過ごすのが一番であると教えられる。
セネカも同様である(人生の短さについて)。
ブッダの教えの中にも下記がある。
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変減するものである。
・・・人が「これはわがものである」と考えるもの、--
それは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという
観念に屈してはならない。 (スッタニパータ)
『自省録』を読むたびに、心がリセットされるのを感じる。
『自省録』 マルクス・アウレーリウス著 神谷美恵子訳
岩波文庫 青610-1
何かをするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。 34頁
すべて心をみだすような考えや親しみのうすい考えを追い払って抹殺し、ただちに心の平安にはいるのはなんとたやすいことであろう。 63頁
顔に怒りの色のあらわれているのは、ひどく自然に反することで、それがしばしば見られるときには、美は死んで行き、ついには全く再燃も不可能なほどに消滅してしまう。 107頁
すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。 155頁
哲学するには、君の存在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ。このことがなんとはっきり思い知られることか。 184頁
主観を外に放り出せ。そうすれば君は助かる。誰が放り出すのを妨げるのだ。 207頁
我が家には、バクという犬がいる。
バクは、犬とは思えない犬である。
この犬には、欲がないし、怒りがない。
犬のように、うなり、怒ることがない。
食べること対しても執着心がない。
食べ物をとりあげても、黙って見ている。
足を踏んづけても、キャンと言ったことがない。
うなり声を聞いたことがない。
バクには、哀しみという感情がある。
ある時、小鳥が、我が家のガラス窓に写った景色を、本当の景色と勘違いし
ぶつかってしまい、死んでしまった。
これを見たバクは、痙攣している小鳥を見て、悲愴な、鳴きそうな顔をして
いた。 身体は、ぶるぶると震えていた。
死を理解している犬である。
時々バクと対話するが、こちらの考えを理解しているように感じる。
言葉を聞きながら、考えている。
怒りを持つな、執着心を持つなと、
いつもバクにも言われているような気がする。
下記は、ルソーの言葉であるが、
これが、本当の幸福について的確に表現していると感じる。
幸福とは、時間性をもたないことかも知れない。
魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとすれば、この状態が続くかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。 87頁~88頁
『孤独な散歩者の夢想』 ルソー著 今野一雄訳
岩波文庫 青623-1
今日は、すでに黄砂の影響か、春霞である。
温暖化、砂漠化、何れ日本も砂漠になるかも。


『自省録』は、自分を律するために、自分自身の行動を確認するために書かれたメモのようなものである。
いくら「自分が」と言っても、その自分もすぐに人々から忘れ去られてしまう。
何よりも心を平静にして、今、この時(現在)を過ごすのが一番であると教えられる。
セネカも同様である(人生の短さについて)。
ブッダの教えの中にも下記がある。
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変減するものである。
・・・人が「これはわがものである」と考えるもの、--
それは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという
観念に屈してはならない。 (スッタニパータ)
『自省録』を読むたびに、心がリセットされるのを感じる。
『自省録』 マルクス・アウレーリウス著 神谷美恵子訳
岩波文庫 青610-1
何かをするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。 34頁
すべて心をみだすような考えや親しみのうすい考えを追い払って抹殺し、ただちに心の平安にはいるのはなんとたやすいことであろう。 63頁
顔に怒りの色のあらわれているのは、ひどく自然に反することで、それがしばしば見られるときには、美は死んで行き、ついには全く再燃も不可能なほどに消滅してしまう。 107頁
すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。 155頁
哲学するには、君の存在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ。このことがなんとはっきり思い知られることか。 184頁
主観を外に放り出せ。そうすれば君は助かる。誰が放り出すのを妨げるのだ。 207頁
我が家には、バクという犬がいる。
バクは、犬とは思えない犬である。
この犬には、欲がないし、怒りがない。
犬のように、うなり、怒ることがない。
食べること対しても執着心がない。
食べ物をとりあげても、黙って見ている。
足を踏んづけても、キャンと言ったことがない。
うなり声を聞いたことがない。
バクには、哀しみという感情がある。
ある時、小鳥が、我が家のガラス窓に写った景色を、本当の景色と勘違いし
ぶつかってしまい、死んでしまった。
これを見たバクは、痙攣している小鳥を見て、悲愴な、鳴きそうな顔をして
いた。 身体は、ぶるぶると震えていた。
死を理解している犬である。
時々バクと対話するが、こちらの考えを理解しているように感じる。
言葉を聞きながら、考えている。
怒りを持つな、執着心を持つなと、
いつもバクにも言われているような気がする。
下記は、ルソーの言葉であるが、
これが、本当の幸福について的確に表現していると感じる。
幸福とは、時間性をもたないことかも知れない。
魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとすれば、この状態が続くかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。 87頁~88頁
『孤独な散歩者の夢想』 ルソー著 今野一雄訳
岩波文庫 青623-1
今日は、すでに黄砂の影響か、春霞である。
温暖化、砂漠化、何れ日本も砂漠になるかも。


2007年02月04日
宇宙と調和する
先月28日、桂浜にある坂本龍馬記念館の隣の桂浜荘にて「清らかに、やるせなく」と題して、オカリナと月琴・出会いのデュエット-が開催された。
北海道帯広市出身で小田原市在住のオカリナ奏者本谷美加子さんと、東京在住で東京芸大音楽部卒のハープ奏者木村典子さんのデュエットである。
http://micacohonya.sakura.ne.jp/prof/
当日は、坂本龍馬記念館に14年間資料として展示・保管されてきた「月琴」が楽器として演奏された。この月琴は、坂本龍馬の奥さんであったお龍さんが弾いていた月琴と同時期のもので、もう百年以上昔の楽器である。
楽器というものは不思議なもので、弾かなければ音がでなくなる(音を忘れる)が、弾いてやると再び生き返るものである。特に、人の体温が伝わることで、楽器(音)が生き返ってくるから不思議である。楽器には、人間の体温が必要である。
月琴の弦は4本あるが、2本は同じ音階(復弦)になっている。したがって、2音階しかない。2本の弦は同じ音階になっているが、弦の長さに5mmほど違いがあり、その関係か、音色は中国的な幽玄の音色となる。そもそも、この月琴は中国から輸入された楽器である。
楽器を演奏する時には、まず音叉をつかって音程を合わす必要がある(ピアノだと調律)。
この作業をせずに楽器を練習しても、音感は良くならないし上達しないと感じる。
なぜなら、宇宙の音と共鳴しないからである。
宇宙に対して不協和音を出していては、演奏ものらないし、音感もよくならない。
演奏を聴く人の琴線にも響かない。音程は何よりも重要である。
昔々、ギリシャ神話の中にアポロンが弾いている竪琴がある。
今だと、形状はハープに近い楽器であるが、名前はキターラ(Kithara)またはリラ(Lyra)という。
キターラという名前は、ギターにもシュタールにも繋がるものがあると感じる。
また、リラはリュート(ギターの原型になる古楽器)にも繋がる名前である。
アポロンは、ミューズの神を率いているが、ミューズは今ではミュージックである。
古代、音楽には重要な意味があったと感じる。
言葉のない時代、音楽とか絵画は重要であった。
古代から音を理解する、音を聞き分ける、ということは非常に重要なことだったと思う。
また、和音の出る楽器は、情操教育にとっても非常に重要だと思う。
ピアノ、ギターなど。
古代は、キターラである。
笛や太鼓もあっただろうが、調和という意味では。
いくつもの音を同時に聞き分けられることは、何人もの話しを聞き分けられることにも通じる。
聖徳太子ではないが。
古代から国を治める者に必要な素養(教養)として、弦楽器などを演奏する能力があったようである。
一つには宇宙との調和、一つには人々の話を聞き分けることができる力(能力)。
音階を最初に「研究」したのはピタゴラスかもしれない。
彼は、不思議な人物である。全知とは言わないが、色々なことを知っていたようである。
前世の記憶が、何代も前から残っていたと言われている。
そして、ピタゴラスは豆が苦手だったようであるが、思うに、タンパク質アレルギーではなかったかと。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/42267_18786.html
ピタゴラス音階
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/music/music.htm
ギリシャ神話と竪琴
http://www.jttk.zaq.ne.jp/heimat/harp.htm
耳には聞こえないかも知れないが、宇宙には音程(音)がある。
そしてリズムがある。
会話にも、この音程とリズムが重要であると感じる。
たまには、音叉で音程を確認してみてはと思う。
40年近く、ギター(6弦と10弦)とルネッサンス・リュートを弾いていて、右手、左手の指を全て自分の意志で自由に動かすことができるようになった。メロディー(音の流れ)も、複数の流れを同時に、それぞれ別々の流れとして感じられる(聞き分けられる)ようになった。
全ての音には、音程と長さがある。
音程も重要であるが、長さも重要である。
特に、音を一定の長さで消す(ピタッと消す)ことは重要である。
音を出すことよりも、音符の長さで消すことの方が難しい。
本谷美加子さんのオカリナを聴いていて、すごく宇宙的だと感じる。
ぴーんと張った一本の線のように延びる音、歪みのない音、不協和音のない音、完全に人間の持つ音叉に響いてくる。無理がなく、無駄がない音。
今日は、久しぶりにリュートでも演奏してみよう。
8コース、15弦の、ルネッサンス・リュートである。
今日は立春、51回目の誕生日。
リュート


月琴



司会をしているのは、坂本龍馬記念館の学芸を担当している前田由紀枝さんです。
前田さんは、音楽に文学に芸術に、素晴らしい感性をもった方ですが、以前、前田さんから J.R.ヒメーネス作の「プラテーロとわたし」の原書(スペイン語)をいただいたことがあります。
「PLATERO Y YO」
「プラテーロとわたし」のような、牧歌的なエッセーを共同で執筆したいのですが、まだ実現していません。
お互いに、忙しすぎて。
何れ、、、。
コンスエグラの風車の中で、リュートを弾くのも良いかな?

http://pws.prserv.net/jpinet.okeiji/2001spa-cons.htm
北海道帯広市出身で小田原市在住のオカリナ奏者本谷美加子さんと、東京在住で東京芸大音楽部卒のハープ奏者木村典子さんのデュエットである。
http://micacohonya.sakura.ne.jp/prof/
当日は、坂本龍馬記念館に14年間資料として展示・保管されてきた「月琴」が楽器として演奏された。この月琴は、坂本龍馬の奥さんであったお龍さんが弾いていた月琴と同時期のもので、もう百年以上昔の楽器である。
楽器というものは不思議なもので、弾かなければ音がでなくなる(音を忘れる)が、弾いてやると再び生き返るものである。特に、人の体温が伝わることで、楽器(音)が生き返ってくるから不思議である。楽器には、人間の体温が必要である。
月琴の弦は4本あるが、2本は同じ音階(復弦)になっている。したがって、2音階しかない。2本の弦は同じ音階になっているが、弦の長さに5mmほど違いがあり、その関係か、音色は中国的な幽玄の音色となる。そもそも、この月琴は中国から輸入された楽器である。
楽器を演奏する時には、まず音叉をつかって音程を合わす必要がある(ピアノだと調律)。
この作業をせずに楽器を練習しても、音感は良くならないし上達しないと感じる。
なぜなら、宇宙の音と共鳴しないからである。
宇宙に対して不協和音を出していては、演奏ものらないし、音感もよくならない。
演奏を聴く人の琴線にも響かない。音程は何よりも重要である。
昔々、ギリシャ神話の中にアポロンが弾いている竪琴がある。
今だと、形状はハープに近い楽器であるが、名前はキターラ(Kithara)またはリラ(Lyra)という。
キターラという名前は、ギターにもシュタールにも繋がるものがあると感じる。
また、リラはリュート(ギターの原型になる古楽器)にも繋がる名前である。
アポロンは、ミューズの神を率いているが、ミューズは今ではミュージックである。
古代、音楽には重要な意味があったと感じる。
言葉のない時代、音楽とか絵画は重要であった。
古代から音を理解する、音を聞き分ける、ということは非常に重要なことだったと思う。
また、和音の出る楽器は、情操教育にとっても非常に重要だと思う。
ピアノ、ギターなど。
古代は、キターラである。
笛や太鼓もあっただろうが、調和という意味では。
いくつもの音を同時に聞き分けられることは、何人もの話しを聞き分けられることにも通じる。
聖徳太子ではないが。
古代から国を治める者に必要な素養(教養)として、弦楽器などを演奏する能力があったようである。
一つには宇宙との調和、一つには人々の話を聞き分けることができる力(能力)。
音階を最初に「研究」したのはピタゴラスかもしれない。
彼は、不思議な人物である。全知とは言わないが、色々なことを知っていたようである。
前世の記憶が、何代も前から残っていたと言われている。
そして、ピタゴラスは豆が苦手だったようであるが、思うに、タンパク質アレルギーではなかったかと。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/42267_18786.html
ピタゴラス音階
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/music/music.htm
ギリシャ神話と竪琴
http://www.jttk.zaq.ne.jp/heimat/harp.htm
耳には聞こえないかも知れないが、宇宙には音程(音)がある。
そしてリズムがある。
会話にも、この音程とリズムが重要であると感じる。
たまには、音叉で音程を確認してみてはと思う。
40年近く、ギター(6弦と10弦)とルネッサンス・リュートを弾いていて、右手、左手の指を全て自分の意志で自由に動かすことができるようになった。メロディー(音の流れ)も、複数の流れを同時に、それぞれ別々の流れとして感じられる(聞き分けられる)ようになった。
全ての音には、音程と長さがある。
音程も重要であるが、長さも重要である。
特に、音を一定の長さで消す(ピタッと消す)ことは重要である。
音を出すことよりも、音符の長さで消すことの方が難しい。
本谷美加子さんのオカリナを聴いていて、すごく宇宙的だと感じる。
ぴーんと張った一本の線のように延びる音、歪みのない音、不協和音のない音、完全に人間の持つ音叉に響いてくる。無理がなく、無駄がない音。
今日は、久しぶりにリュートでも演奏してみよう。
8コース、15弦の、ルネッサンス・リュートである。
今日は立春、51回目の誕生日。
リュート


月琴



司会をしているのは、坂本龍馬記念館の学芸を担当している前田由紀枝さんです。
前田さんは、音楽に文学に芸術に、素晴らしい感性をもった方ですが、以前、前田さんから J.R.ヒメーネス作の「プラテーロとわたし」の原書(スペイン語)をいただいたことがあります。
「PLATERO Y YO」
「プラテーロとわたし」のような、牧歌的なエッセーを共同で執筆したいのですが、まだ実現していません。
お互いに、忙しすぎて。
何れ、、、。
コンスエグラの風車の中で、リュートを弾くのも良いかな?

http://pws.prserv.net/jpinet.okeiji/2001spa-cons.htm
2007年02月03日
南国の春
今日は節分、二月三日。
二月に入り少しだけ寒の戻りで寒い日が続いていたが
野山は既に春である。
二十年前だと二月の中旬に花を咲かせていた梅の花も
今年は一月下旬には開花してしまった。
もう満開に近づいている。
水仙の花も咲いて
椿の花も咲いて
蜜蜂たちが忙しく飛んでいる。
庭に咲いていたサザンカの花は
大きな鳥たちが沢山あつまって密を呑んでいた。
花は、すでに鳥たちによって落とされてしまった。
我が家の庭には
沢山の鳥や昆虫たちが集まってくる。
お陰で、実のなる様々な植物が生えている。
山椒の木は大木となり
初夏には沢山の実をつけてくれる。
今年は山に食べ物が多いのか
千両や万両の実はまだ残っている。
明日は立春(誕生日)
とうとう半世紀以上生きたことになる。
四十倍すれば、二千年になる。
二千年って、ほんのこの間の出来事かもしれない。
今日は節分
二千年前に書かれた本を読んでいる。
キケロ、セネカ、マルクス・アウレーリウス。
もう春である。











二月に入り少しだけ寒の戻りで寒い日が続いていたが
野山は既に春である。
二十年前だと二月の中旬に花を咲かせていた梅の花も
今年は一月下旬には開花してしまった。
もう満開に近づいている。
水仙の花も咲いて
椿の花も咲いて
蜜蜂たちが忙しく飛んでいる。
庭に咲いていたサザンカの花は
大きな鳥たちが沢山あつまって密を呑んでいた。
花は、すでに鳥たちによって落とされてしまった。
我が家の庭には
沢山の鳥や昆虫たちが集まってくる。
お陰で、実のなる様々な植物が生えている。
山椒の木は大木となり
初夏には沢山の実をつけてくれる。
今年は山に食べ物が多いのか
千両や万両の実はまだ残っている。
明日は立春(誕生日)
とうとう半世紀以上生きたことになる。
四十倍すれば、二千年になる。
二千年って、ほんのこの間の出来事かもしれない。
今日は節分
二千年前に書かれた本を読んでいる。
キケロ、セネカ、マルクス・アウレーリウス。
もう春である。














